とある飛空士の恋歌1〜4巻感想〜今、交わろうとする水平線〜

突然だが、結論から言おう。
とある飛空士の追憶は、「交わるまじき男女」を描いた物語だ。
とある飛空士の恋歌は、「交わるべき男女」を描いた物語だ。

とある飛空士の追憶

2008年2月20日ライトノベル界を激震させる小さな小さな文庫本がガガガ文庫から発売された。
作者は犬村小六、本の名は「とある飛空士の追憶」という。

ここで自己中心的な価値観の押し付けの文章を書く事は自粛すべきだろう。

だが、私は自重しない。自重せずに書くのだ。

とある飛空士の追憶」に於ける「空」と「海」は決して交わらない。いや、交われないのだ。それについては、二年以上前に書いた感想に書いた。

 「水平線」についての暗喩については既に書きましたが、世界観として、世界は「大瀑布」によって断絶されており、大瀑布の北端と南端は「知られていない」という事になっています。
 作中に於ける南北の軸は作中でどうにもならなかった「運命」を意味します。
 これは、既に書いたように、「決して交わることの無い運命」は、シャルルが「空」、ファナが「地上(海)」に例えられて「決して交わることの無い水平線」となります。作中で南北に果てが無いように、シャルルとファナの「運命」もまたどうにもなりません。水平線の果てで交わっているかのような淡い期待は、その実、永遠に続く海と空は決して交わらない事を冷酷に表しています。
 逆に、「大瀑布」の東西の行き来は「大瀑布」という障壁を越えることで解消されますが、この「大瀑布」が「神聖レヴァーム皇国と帝政天ツ上の諍い」の暗喩であることは論を待たないでしょう。しかしその収束は困難ではありますが、決して「不可能」ではなく、「大瀑布=人間同士の諍い」程度なら人間の努力で克服可能であることを意味します。
 また、シャルルとファナが「大瀑布を越えた事」がきっかけとなって「神聖レヴァーム皇国と帝政天ツ上の諍い」が収束した事から見ても、「とある飛空士への追憶」は、「人間には解決不可能な運命(南北の軸)」から逃げずに「人間にでも何とかなる問題(東西の軸)」に立ち向かった物語であるとも捉えられるのでしょう。

http://d.hatena.ne.jp/AlfLaylawaLayla/20080518/1211120972

とある飛空士の追憶」に於いては、主人公狩野シャルルに「選択」が委ねられている。
有り体に言えば、ヒロインであるファナ・デル・モラルと「心も体も交わる」か、引いては「空」と「海」の交わる先、即ち「水平線」を目指して逃避するか、という事だ。
だが、結論から言えば、それは決してあり得ない。

何故なら、狩野シャルルの先天的特殊技能、狩野シャルルの本質が、「見えない水平線を捉える」、つまり、「己の成すべき事を決して見失わない」点にあるからだ。

 雲中飛行はシャルルのおはこである。普通の飛空士は空間失調症に陥る危険があるため雲のなかを長時間飛ぶことを嫌うが、シャルルは天性の素質で見えない水平線を捉え、機位を保つ技量があった。(とある飛空士の追憶 P49)

余談ではあるが、「とある飛空士の恋歌」にも空間失調症を起こさないパイロットが存在する。ノリアキ・カシワバラである。

 ベンジャミンは呆れつつも感心した。ノリアキは空間失調の気配すら未銭司、平気の平左で雲中飛行をつづける。敵から逃げようとする本能が、視程ゼロの恐怖を上回ってしまうのだろう。なにも見えなくてもどんなに寒くても平衡感覚が失われようとも,意地でもここから出ようとしない。

ノリアキ・カシワバラもまた、「自分の成すべき事を決して見失わない」人間だった。彼の物語は二度と紡がれない彼の物語もやはり、その一点に尽きるのだ。

とある飛空士の恋歌

とある飛空士の追憶」の狩野シャルルとファナ・デル・モラルは、お互いに「己の成すべき事」の為に心は交わりながらも、距離的にも肉体的にも交わる事は無かった。
しかし、「とある飛空士の恋歌」は違う。決して違う。交わるのだ。いや、既に交わったのだ。

何故か。

「狩野シャルル」の属性は「空」である。ファナ・デル・モラルの属性は「海(または大地)」である。それ故、二人は「遙か水平線の彼方では交わる」ように錯覚されながらも、決して交わらない。
それに対して、「カルエル・アルバス(カール・ラ・イール)」の属性とは「光」であり、「クレア・クルス(ニナ・ヴィエント)」の属性は「風」だ。二つは交わり、水平線の向こう側、空の果てへと一点に飛んでいく。

光=カルエル・アルバス(カール・ラ・イール)

カルエル・アルバスの本質は、「光」だ。
換言しよう。優れた「飛空士」の条件の一つは要は「外界の情報の処理」だ。外界からの刺激情報を的確に処理して判断し、それを飛空艇に確実に伝達する。
カルエルの先天的技能は「光を見る能力」事だ。戦場に於いては「生き残る為に必要な未来の光(光景)を見る」能力として使われるが、本来は「進むべき未来を見る」為の能力だ。

「許す。言ってみて」(マリア・ラ・イール)
「ゆるす」(カール・ラ・イール)
「そう。そのことを覚えていて。憎しみに囚われないで。あなたは光だけを見ていて」(マリア・ラ・イール)
「ひかり」(カール・ラ・イール)
「そう。あなたが許したら、光が闇をぬぐいさる」(マリア・ラ・イール)
「ゆるしたら、ひかりがやみをぬぐいさる」(カール・ラ・イール)
(恋歌#1P84)

その先天的技能「光を見る能力」はカルエルの母が言ったように、軽エルには「赦す為の愛」が必要だった。

風=クレア・クルス(ニナ・ヴィエント)

クレア・クルスの本質は「風」であり、「風」とは「意思」である。

風の歌が聞こえるのだ。大気とこころが同一次元に溶け込んでいる。こころの動きがそのまま風となり、無限の青空はクレア・クルスのカンバスになる。(恋歌#2P13)

それゆえに、クレア・クルスの心が凍るに伴い、風呼びの力は衰えていった。当然である、「意思」なくして「意思」たる「風」が動かせよう筈がない。
それゆえに、クレア・クルスが自分に正直になった時、風呼びの力が蘇ったのだ。当然である。
つまり、人形から人間に戻り、風呼びの力を取り戻すには、「生きる力」が必要だった。そしてそれは「愛」無くしてはありえなかった。

光と風

クレアには「愛」が必要だった。あの瞬間、「生きる」為に。

「最後だから。わたし、ここで死ぬから。だから、ごめん、最後だけ、自分の思い通りに行動させて」
クレアは空へむかって声を張った。
「ずっとずっと誰かの言いなりだったけど、カル、あなたがわたしを変えてくれたの。あの湖であなたに出会ってから、わたし、たくさん、楽しい気持ちを抱けたの」
(恋歌#4P337)

カルエルには「愛」が必要だった。あの瞬間、「クレアを赦す」為に。カルエルの10年とは、その為にあったのだ。

「かっこいい男になれ、ってお父さんよくあんたに言ってたよね。お父さん、あんたに、見本示してくれたんだよ。こういうのがかっこいい男だ、って、態度と行動であんたに教えてくれてるんだ。きっとたぶん絶対、お父さん、そういう人だもん」(アリエル・アルバス)
(恋歌#4P154)

つまり、「愛」。

これで「光」と「風」が揃った。
では、「光」は「風」をどこへ導くか。「水平線の果て」、シャルルとファナが選ばなかった、選べなかった未来だ。
 シャルルとファナは「空」と「地」だった為に水平線の先を夢見ながらそれが幻想だと知っていたから交わらなかった。しかし、カルエルとクレアは「光」と「風」だ。二つは手を携えて飛ぶのだ。

カルエルは本来隔たれている筈のヴァン・ヴィール組(貴族の子弟)とセンテジュアル組(庶民の子弟)の垣根など無いが如くにクレア・クルスとペアになり、涙しながら別れを告げようとするクレア・クルスの唇を奪うなど、物理的・心理的な牆壁を易々と飛び越える。それは即ち、「操縦能力」の暗喩である。カルエルは「飛び越える特性」を備えている。即ち、カルエルは、聖泉など飛び越えていく。聖なる十字、恐らくこの世界は十字で断絶されている。それを飛び越えていくのだ。

おそらくは半年後、季節は冬、「とある飛空士の恋歌」は5巻で完結を迎える。
それまで楽しみに待つとしよう。

とある飛空士への恋歌 4 (ガガガ文庫)

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とある飛空士への恋歌 2 (ガガガ文庫)

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