アニメ版「true tears」はエロゲのアンチテーゼ、「アンチヴィジュアルノベル」である。

 「true tears」の基本構造は、保たれていた均衡が「欲望と理性」をきっかけに大きく崩れて新たな均衡に向かう「人間力学」なんだと思います。
 全てのきっかけは眞一郎君と乃絵さんの出会い。それが人間関係に微細な綻びを生じさせるのですが、それ自体は何の変哲も無いただの「小さな変化」なのですが、それが当人達以外の人間に影響を与えてしまい、それが巡り巡って当人達に「大きな変化」となって返って来る、というのがtrue tearsの「人間力学」。

true tears vol.1 [DVD]

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 true tearsでは基本的に如何に示したように、4人が互いに思わぬ所で影響を及ぼし合い、時には積極的に働きかけるながら、それを若干外からあいちゃんと三代吉君が見ていて、たまに影響を及ぼすというような構図で物語が展開されています。

眞一郎 乃絵
 │  ×  │ 
比呂美 石動純

 物語の開始時点では、以下に示したように、人間関係は直線の状態で、どこかに綻びが生じても、他の人間関係に影響を及ぼさないままにすぐに修復されてしまい、人間関係は変化のしようが無かったのです。

比呂美 眞一郎 あいちゃん 三代吉
乃絵 石動純

 この均衡が、眞一郎君と乃絵さんの出会いで以下のように変わるワケです。この状態では、どこかに綻びが生じてしまうと、修復される前に、連鎖的に他の人間関係も変化してしまいます。

眞一郎 乃絵
 │  ×  │ 
比呂美 石動純

 例えば、比呂美さんが「石動純君が好き」と言った(勿論現時点では本心ではない)のを聞いた眞一郎君が、石動純君に話を「比呂美と付き合ってくれ」と交換条件を持ちかけるんですが、石動純君にも色々思う所が有り、彼も彼の「本心」を叶える為に比呂美さんに「あの二人、付き合うんだ。」(勿論嘘で、石動純君自身もそれを防ごうとしています)という、比呂美さんにとって、一番辛い言葉となって返ってきます。そしてそれが、「兄妹かもしれない」という今までの眞一郎君と比呂美さんの関係を根本から破壊しかねない言葉へと繋がっていきます。

 また、事態を加速させているのは、「欲望と理性の鬩ぎ合い」です。
 先程の例で「石動純君にも色々思う所が有り、彼も彼の「本心」を叶える為に」と書きましたが、彼は妹である乃絵を大事に思っているんですが、それは兄と妹を逸脱しかねない「思い」なワケです。しかし、それが「許されない思い」だという理性も同時に働いています。
 その為、石動純君が眞一郎君に提案した「乃絵と付き合って欲しい」という言葉は、「妹への思い」を断ち切る為に妹と眞一郎をくっつけようというのが一つの意図だったんですが、ここで、眞一郎君が「比呂美と付き合ってくれ」と交換条件を持ち出してしまったから事態がややこしくなってしまったのです。
 石動純君が押さえようとしていた「妹への思い」が再び鎌首を擡げ始め、「比呂美さんと付き合う事で、乃絵の気を引く事が出来るのではないか?」、「眞一郎が好きらしい比呂美と付き合う事で、眞一郎と乃絵が仲良くならないように出来るのではないか?」、「眞一郎が妹である乃絵と付き合うなんて我慢出来ない」という気持ちを呼び起こしてしまっています。
 その証拠としては、例えば現時点での最新話・第6話「それ…何の冗談?」で石動純が妹に「お前の事なんか言ってきたか?」と言っています。眞一郎君と乃絵さんを付き合わせようと思うのなら、眞一郎君が第5話で比呂美さんに「お前の事、可愛いって言ってたぞ。」と言ったように、はっきりと「何の話か」を言う必要があったのに、それをせずにお茶を濁したのは、彼が一度は諦めようとした「妹への思い」が土壇場で押さえきれなくなってしまったからです。なお、今話で石動純君が「あいつ、お前に何か言ってきたか?」と言ったのは、第5話「おせっかいな男の子ってバカみたい」で眞一郎君が「兄貴からなんか言われなかったか?」と相似と対を成していて、それとなく二人とも乃絵さんの反応を伺って、「眞一郎と乃絵の距離感」を測ろうとした事の表れで、それが一層石動純君の「本心」を浮き彫りにしています。

 また、石動純君が乃絵さんに「デート。」とわざわざ言ったのは、その直前で比呂美さんが眞一郎君に「とりあえず、日曜日にデート」と相似と対を成していて、二人とも、本当に「好きな人」に「嫉妬して欲しい」、「自分を見て欲しい」という欲望の表れでもあります。

 更に言うと、「誰かの気を引く為に誰かと付き合う」という手段は、物語中で最も古いのは「あいちゃんと三代吉君」でしたが、それが破滅的な展開を迎えるのと交替するように、「比呂美さんと石動純君」で再び取られているのは構造的に非常に面白いです。しかも、「あいちゃんと三代吉君」と「比呂美さんと石動純君」は、基本的に接点を持たないので余計にそれが構造的に面白いのです。

 ここでは、石動純君だけを例にとりましたが、勿論眞一郎君を始め、乃絵さん、比呂美さんも、同様に「人間力学」によって連鎖的に人間関係の変化に曝されています。(長くなるので書きませんが)

リフレクティア

リフレクティア

最後に

 多くのアニメは、ヴィジュアルノベルの「フラグ立て」の文脈上にあり、登場人物達は、「本心」を「相手(またはプレイヤー・視聴者)に分かり易い態度」で示す事で、登場人物の行動に「一貫性」を持たせて、プレイヤー・視聴者が「矛盾」を感じないように展開されています。
 しかし、true tearsの場合は、原作である筈のエロゲ、つまり「フラグ立て」の文脈であるヴィジュアルノベルの形式を破棄し、全く新たな物語を紡ぎ出しているように、「フラグ立て」の文脈から解放されて、「本心」を「相手(またはプレイヤー・視聴者)に分かり難い態度」で示す事で成り立っていて、登場人物の行動に「一貫性」が無いように、つまりプレイヤー・視聴者に意図的に「矛盾」を感じさせながら展開(実際は「欲望」と「理性」という「矛盾」自体という筋道の通った話なのですが)されています。

 私がtrue tearsが凄いと感じるのは正にその点で、人間の行動原理が2つあるという事です。つまりは「欲望」と「理性」。この二つが、登場人物達に矛盾した行動を取らせる事で、これまでの、「欲望」と「理性」が一致しているキャラクター(例えばツンデレは、相手を好きな事を隠せていないという「欲望」と「理性」の不分離の典型的なキャラクターとして解釈されます。実はその逆も言えるんですが…)で展開されてきたアニメ界に、よりリアルな「欲望」と「理性」の乖離という新風を吹かせてくれているように感じるのです。

 実際、現時点ではtrue tearsに対して肯定的な意見が非常に多いので、「欲望」と「理性」の乖離の面白さは、非常に上手く機能していると言っていいと思います。

 もしかしたら、ツンデレの次に来る波というのは、true tearsが提示した「欲望」と「理性」の乖離の先にいるキャラクターなのではないでしょうか。