アニメ版true tearsで用いられている「重ね合わせ」を用いた内面の描写方法について

 アニメ版true tearsでは、全く独立に動いている人物の行動や独白から、別の人物の「内面」が次々に明らかになっていくtrue rearsで描写方法が特徴的に用いられています。
 先回の記事「アニメ版「true tears」はエロゲのアンチテーゼ、「アンチヴィジュアルノベル」である。」ではその事に言及しましたが、書き足らない所があったので今回はそれについて補足しておきたいと思います。

 その証拠としては、例えば現時点での最新話・第6話「それ…何の冗談?」で石動純が妹に「お前の事なんか言ってきたか?」と言っています。眞一郎君と乃絵さんを付き合わせようと思うのなら、眞一郎君が第5話で比呂美さんに「お前の事、可愛いって言ってたぞ。」と言ったように、はっきりと「何の話か」を言う必要があったのに、それをせずにお茶を濁したのは、彼が一度は諦めようとした「妹への思い」が土壇場で押さえきれなくなってしまったからです。なお、今話で石動純君が「あいつ、お前に何か言ってきたか?」と言ったのは、第5話「おせっかいな男の子ってバカみたい」で眞一郎君が「兄貴からなんか言われなかったか?」と相似と対を成していて、それとなく二人とも乃絵さんの反応を伺って、「眞一郎と乃絵の距離感」を測ろうとした事の表れで、それが一層石動純君の「本心」を浮き彫りにしています。

 また、石動純君が乃絵さんに「デート。」とわざわざ言ったのは、その直前で比呂美さんが眞一郎君に「とりあえず、日曜日にデート」と相似と対を成していて、二人とも、本当に「好きな人」に「嫉妬して欲しい」、「自分を見て欲しい」という欲望の表れでもあります。

 更に言うと、「誰かの気を引く為に誰かと付き合う」という手段は、物語中で最も古いのは「あいちゃんと三代吉君」でしたが、それが破滅的な展開を迎えるのと交替するように、「比呂美さんと石動純君」で再び取られているのは構造的に非常に面白いです。しかも、「あいちゃんと三代吉君」と「比呂美さんと石動純君」は、基本的に接点を持たないので余計にそれが構造的に面白いのです。

http://d.hatena.ne.jp/AlfLaylawaLayla/20080214/1203001029

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実例

 それでは、時系列に沿って順次例を挙げていきましょう。

 なお、以下では簡便の為に情報を簡略化していますが、実際の情報は、未確定のモノを含めるともっと多いので悪しからず。けれども、それでもかなり冗長なので、結論だけ知りたい人は飛ばして下さって構いません。

第1話「私…涙、あげちゃったから」

 さて、第1話の段階では、「眞一郎君は比呂美さんが好き」という情報だけが確定情報として与えられています。

第1話の時点で視聴者が知っている情報

 「眞一郎君は比呂美さんが好き」

第2話「私…何がしたいの…」

 しかし、第2話の段階で、「あいちゃんは三代吉君と付き合っているのに、何故か眞一郎君の事が好き」なのだと描写され、「あいちゃん→眞一郎」と視聴者に印象付けられます。

第2話の時点で視聴者が知っている情報

 「眞一郎君は比呂美さんが好き」
 「あいちゃんは眞一郎君が好き(らしい)」

第3話「どうなった?こないだの話」

 そしてそれを承けて第3話であいちゃんが言った台詞。

「人って……、人って、誰かを好きになると、その人にもっと近寄りたいって思うよね。
もっともっとその人に…。
でも、それが叶わない時、その人の近くにいる誰かの傍に…」(あいちゃん)

 この台詞と「あいちゃん→眞一郎」と「比呂美→眞一郎」の類似性から、視聴者に整理された形で理解され、「比呂美さんは眞一郎が好き」と、情報が一つ増えます

第3話の時点で視聴者が知っている情報

 「眞一郎君は比呂美さんが好き」
 「あいちゃんは眞一郎君が好き」←(らしい)が取れる
 「比呂美さんは眞一郎君が好き(らしい)」

第4話「はい、ぱちぱちってして」

 そして、「比呂美さんは眞一郎が好き」という情報がほぼ確実だと視聴者に提示した上で展開された第4話でやはりあいちゃんが言った台詞。

「いつか自然に、忘れられる時が来るから。」(あいちゃん)

 これは、、自分の「思い」を相手に隠しているアナロジーから眞一郎君、比呂美さん、あいちゃん、(実は石動純君も)の内面の説明になっていて、一気に情報が増えます。

第4話の時点で視聴者が知っている情報

「眞一郎君は比呂美さんが好き」
 「あいちゃんは眞一郎君が好き」
 「比呂美さんは眞一郎君が好き(らしい)」
 「あいちゃんは眞一郎君を忘れようとしている。」
 「比呂美さんは眞一郎君を忘れようとしている。(らしい)」
 (「石動純君は乃絵さんを忘れようとしている。(らしい)」←第6話で判明する)

第5話「おせっかいな男の子ってバカみたい」

 そして、第5話では、眞一郎君と比呂美さんの双方の独白と内面の独白の重ね合わせという手法によって、眞一郎君と比呂美さんの思考が全くの相似を成している事から、「眞一郎君は比呂美さんが好き」の逆もまた真である事がはっきりします。

「初めてだよな、この部屋、入るの。」(眞一郎)

「初めてね。私がこの家に来てから眞一郎君がこの部屋に入るの。」(湯浅比呂美)

「って、何だよ、この会話…。」(眞一郎)

「何話してるの、あたし…。」(湯浅比呂美)

第5話の時点で視聴者が知っている情報

 「眞一郎君は比呂美さんが好き」
 「あいちゃんは眞一郎君が好き」
 「比呂美さんは眞一郎君が好き」←(らしい)が取れる
 「あいちゃんは眞一郎君を忘れようとしている。」
 「比呂美さんは眞一郎君を忘れようとしている。」←(らしい)が取れる
 (「石動純君は乃絵さんを忘れようとしている。(らしい)」←第6話で判明する)

第6話「それ…何の冗談?」

 そして第6話での石動純君の台詞。

「好きなモノを好きでいられなくなるって、キツいよな。」(石動純)

 これは、「兄妹」関連で石動純君と比呂美さんの説明になっていて、そして終盤では眞一郎君も巻き込まれる事になるんですが、「眞一郎君は比呂美さんが好き」、「比呂美さんは眞一郎君が好き」という確定情報から、「石動純君は乃絵さんが好き」が確定情報となります。

第6話の時点で視聴者が知っている情報

 「眞一郎君は比呂美さんが好き」
 「あいちゃんは眞一郎君が好き」
 「比呂美さんは眞一郎君が好き」
 「あいちゃんは眞一郎君を忘れようとしている。」
 「比呂美さんは眞一郎君を忘れようとしている。」
 「石動純君は乃絵さんを忘れようとしている。」←(らしい)が取れる
 「石動純君は乃絵さんが好き」

 また、やはり第6であいちゃんが言った台詞。

「眞一郎が好きなセーターを…勝手に…。」

 ここから、あいちゃんと石動純君、比呂美さんの類似性から、あいちゃんが取った「あいちゃんは眞一郎君にアピールする為に三代吉と付き合っている」という手段は即座に、「石動純君は乃絵さんにアピールする為に比呂美さんと付き合う」、「比呂美さんは眞一郎君にアピールする為に石動純君と付き合う」という事なのだと推測されます。

・この時点で視聴者が知っている情報

 「眞一郎君は比呂美さんが好き」
 「あいちゃんは眞一郎君が好き」
 「比呂美さんは眞一郎君が好き」
 「あいちゃんは眞一郎君を忘れようとしている。」
 「比呂美さんは眞一郎君を忘れようとしている。」
 「石動純君は乃絵さんを忘れようとしている。」
 「石動純君は乃絵さんが好き」
 「あいちゃんは眞一郎君にアピールする為に三代吉と付き合っている」
 「石動純君は乃絵さんにアピールする為に比呂美さんと付き合う(らしい)」
 「比呂美さんは眞一郎君にアピールする為に石動純君と付き合う(であろう)」
  (↑終盤の石動純君と比呂美さんのそれぞれの「暴露」の効果によるパワーバランスの変化で、比呂美さんと石動純君の親和性が高くなるのでほぼ確実。)

リフレクティア

リフレクティア

結論

 つまりは、true tearsでは、登場人物同士の「重ね合わせ」によって、視聴者に登場人物達の内面が見えてくる非常に綺麗な構造を成しています。

・第6話の時点で視聴者が知っている情報

 「眞一郎君は比呂美さんが好き」
 「あいちゃんは眞一郎君が好き」
 「比呂美さんは眞一郎君が好き」
 「あいちゃんは眞一郎君を忘れようとしている。」
 「比呂美さんは眞一郎君を忘れようとしている。」
 「石動純君は乃絵さんを忘れようとしている。」
 「石動純君は乃絵さんが好き」
 「あいちゃんは眞一郎君にアピールする為に三代吉と付き合っている」
 「石動純君は乃絵さんにアピールする為に比呂美さんと付き合う(らしい)」
 「比呂美さんは眞一郎君にアピールする為に石動純君と付き合う(であろう)」
  (↑終盤の石動純君と比呂美さんのそれぞれの「暴露」の効果によるパワーバランスの変化で、比呂美さんと石動純君の親和性が高くなるのでほぼ確実。)

 これは、作中で乃絵さんが言った台詞、

「そうじゃないわ。『まごころの想像力』よ。」
「相手がどうして苦しんでいるのか、どうすれば救えるのか、まごころで考えるの。」

 この「まごころの想像力」が、視聴者には非常によく効いていて、登場人物達の内面が良く理解できるようになっています。。

 しかし、この台詞を作中で実際に聞いた眞一郎君はというと、「まごころの想像力」を働かせたばかりに、事態の悪化と加速を招く一方――という現状は、皮肉以外の何者でもありません。

 先回記事も含めて、true tearsでは、通常は物語で用いられる単なる修辞法に過ぎない筈の技法を物語の構造そのものに組み込むという非常に野心的な事を行っているように感じます。しかも、それらが少なくとも折り返し地点である現段階では非常に上手く働いているというのは良い意味での「驚愕」に値する作品であるように感じます。