ライラの冒険に対する評価は西欧世界の思想の強靱さそのものだと思った。

 CMで明らかにDaemon(デーモン)を意図的に「ダイモン」と読んでいるので気になっていたんですが、成る程、一部の教会にケンカ売ってる内容みたいでした。
 「作中の神」が神を僭称する天使で、悪魔のはずの「ダイモン」が守護天使的な描かれ方をしていたりと、既存の価値観をひっくり返す事を意図的にしている感じですが、「ライラの冒険」は、カーネギー賞に輝いて高い文学性を評価されている一方で、教会勢力からは冒涜的内容と批判されていたりと、一見両極端な評価が与えられていて非常に面白いんですよね。

黄金の羅針盤〈上〉 ライラの冒険

黄金の羅針盤〈上〉 ライラの冒険

 米キリスト教団体のカトリック連盟が、ニコール・キッドマンダニエル・クレイグ主演のファミリー向けファンタジー映画「ライラの冒険/黄金の羅針盤」のボイコットを訴えている。

http://news.livedoor.com/article/detail/3377545/

 中世までキリスト教にべったりで、文化的にはあまり高くはなかった西欧が、近世、近代と怒濤の発展を遂げたのは、キリスト教そのものがヨーロッパを鍛え上げてきた「理性」の力そのものがやがてキリスト教そのものを批判するまでに成長した事に由来しています。

 「ライラの冒険」についても同じように、「キリスト教から生まれた作品」が「現行キリスト教の批判」になり、「そこに秘められたメッセージ」を受け取る力がある一方で、一部の教会は、表面的な事をつっついて認めようとしない。形式的にせよ内容的にせよ、そういう排他的な所がユダヤ教に始まる一神教の遺伝子みたいなものですから。

 でも、その姿こそが、西欧世界の思想の強靱さ、「破壊」と「再構築」からなる伝統だと思うんですよね。

 「母体となる思想」から、「それを否定する思想」が生まれ、絶え間なく「固定概念」が打破されていく事で、多様な価値観と文化の発展が生まれる。

 哲学なら「キリスト教」を徹底的に乗り越えようとしたニーチェの「神は死んだ」や、物理の世界で言えば「ニュートン力学」の矛盾から「相対性理論」や「量子力学」が生まれたりした事、数学なら「数学」の根幹を揺るがした「ゲーデル不完全性定理」が挙げられると思います。それらは、西欧世界そのものが持っている「力」というものが表出した形で生まれ、言うなれば「弟子が師から独立して新しい流派を打ち立てる」ように、母体となる思想(=師)から得た知識や思考形態などの遺産を継承しながらも、新しい価値観を見出していく共通点があります。
 ですので、「ライラの冒険」もやはりその延長線上にあり、指輪物語ロード・オブ・ザ・リング)や、ナルニア物語のようなキリスト教を背景に持つ「ファンタージー世界」から、教会的な意味でのキリスト教を批判する程の物語が生まれた過程はやはり、西欧世界から生まれるべくして生まれたものだと思います。

 多分日本からは冒涜的な物語や廃頽的な物語は生まれても、あそこまで教会にケンカの売れる作品は生まれないと思います。日本は西欧世界と比較して「既存概念」を打ち破る事に対する嗜好が弱い。寧ろ嗜好と言うよりは、根底に設定された「本能」や「衝動」に近いもののような気がします。それ程までに西欧の場合は「激しく」それが表出してくると感じています。例えば、日本人が「空気読め」と躊躇する所を、あちらの人は「言いたい事があるなら言えば?」という感じでズケズケと進んでくる。

 日本発の「ライラの冒険」ならば、きっと「ダイモン」の代わりにガーディアンとかで語気を弱めたり、「作中の神」を打破して真実に至ろうとせずに、「人間万歳」的な着地点を目指す物語を作ってしまいそうな気がします。まあ、その日和っているとも思える緩さこそが日本らしさだとも思うんですが。

 なお、Sunithaはライラの冒険は原作も映画も観てません。あしからず。