涼宮ハルヒの思ヒ出 〜ありがとうございました



  先週の火曜日にアニメ・「鈴宮ハルヒの憂鬱」の放送がフィナーレを迎えた。



 今週の火曜の夜、 ――正確には水曜だが、師走の時分の去年の正月の扱い宜しく、世界はサーカディアンリズムに支配されているのか―― いつものようにディスプレイの前で法としながら「鈴宮ハルヒの憂鬱」の放送を待っていたが、放送されたのは案の定「ちょこッとSister」であった。

 一体何を期待していたのだろう。突き付けられた厳然とした事実を認容する事すら儘ならず、歯車の外れた機械は、失われた歯車を回そうと藻掻き、それが叶わない事を知る。

 残ったのは崩れた歯車の山と、自分と世界の疎隔だけだった―――



 と、まあ、それはそれとして、実は第一話、「EPISODE00 〜朝比奈ミクルの冒険〜」をHDレコーダーの操作ミスで消去してしまった私は、喪失感を埋めるように、昨日、限定版DVDを購入しました。っていうか、埋まれよ喪失。



 早速DVDを観ながら、放送当時に思いを馳せた。



 「ハルヒ」の「ハ」の字も知らぬまま、視聴を開始、凡百のアニメの一つという私の固定観念は、早々に出鼻を挫かれ、――砕け散った。



 「こんなの観たこと無い。」



 何の冗談か、主人公の独白による世界観の説明でもなく、物語の起承転結のいずれにも当てはまらない。



 調子っ外れの主題歌?から違っていた。



 人間は、訓練しないと中々自分の声域を把握できない。

 稀に把握している人間もいるが、平均的な人間が調子っ外れに歌おうとすれば、不自然にならざるを得ない。

 音痴なら、そもそも旋律と自分の声が合わせられないから、聞いていて耳障りでしかない。

 しかし、この主題歌は不自然でも無ければ、耳障りなんてとんでもない。

 自分の声域を把握して、歌い手の「困惑」を見事に表現していた。

 正直、声優さんはすごいと思った。



 後になって気付いたことですが、この作品自体がメタ的構造を持っている為、この劇中劇は、出演者が「演技」を演技している事を含めて、端的に作品世界を象徴している事に気付くと、これを第一話に持ってきたのは妙手以外の何者でも無いことに、ただただ驚くのみだった。



 とにかく度肝を抜かれました。



 しかし、DVDの映像は綺麗すぎる。新カットはまあいいが、もうちょっと粗い画像の法が良かった気がした。