ゲド戦記を観てきました。 〜わりと良作ですよこれ。〜

  ゲド戦記を観てきました。



 簡潔に言えば、主人公とヒロインの話。より正確に言うと、「ヘタレな主人公をヒロインが更正させるお話」です。



 原作モノの映画化で、大事なのは、「映画の中での完結」と、「物語の広がり」のバランスを上手く取る事だと思う。「原作未読者も楽しい。」、「原作が気になるようにし向ける。」と言い換えたっていい。

 そのバランスが上手く取れていたのは、素人監督と言われていた割には、充分すぎる合格点を与えてもいいと思う。95点くらい。



良かった点としては、

「前評判の批判が、取るに足らない部分をつついていた点。」

「最後の最後まで主人公とヒロインの世界レベルではミクロな関係が、ラストで見事に世界レベルでマクロな関係まで波及する、セカイ系みたいな、そんな構成が見事だった点。」

「緩急を押さえた見せ方をしていた点」

「歌がいい。」



悪かった点としては、

「暗喩が多すぎて視聴者が頭を使うところが結構ある。」(人によっては良い点でもある。)

宮崎駿の雰囲気が濃厚すぎた点」(原案が宮崎駿なのでしょうがないけど)



 こんなところで95点。



 まず、映画版ゲド戦記を見てから、余所のブログなどでの評価を見てると、「宮崎監督のコピー」ということでしたが、それとこれとは話が別だと思います。



 この映画はあくまで、「宮崎吾朗監督」が、自分の描きたいモノを宮崎駿の形式で撮った映画だということ。

 批判の殆どは、このことを「コピー」としか観ていなくて、登場人物がどういう役割なのかを観ていないし、伏線や台詞きちんとをチェックする能動性に欠けている為に、「観る」のではなく、「見る」だけしかしていない事が原因だと思います。

 確かに分かりにくさはあるけど、ゲド戦記の原作も未見の私でも、或る程度は分かったと思うので、「見る」ことしかしていなかった人は、是非「観て」ほしいと思います。



 取り敢えず、作品としては面白かった。それでいいと思います。



 まず、良いところも悪いところもきちんと評価し、その上で全体的な評価を下すのが公平な評価。

 制作者側ならともかく、鑑賞者の私たちが作品を評価する場合は、良いところも悪いところも正直に挙げるのが公平な見方だし、それが一番作品を楽しめるのだと思います。

 テストでペケを付けた所、問題をきちんと理解していなかったとしても、そのただ一点だけの評価を、全体の評価とすり替えちゃいけないのと同じ。

 というより、そんなのは勘弁して貰いたいです。(笑)



 そもそも、コピーか、そうでないかのレベルで作品を判断するのは、文化が伝承から出来ていることを否定しているのと同じ。



 確かに、宮崎アニメを通して見てれば、類似点なんかいくらでも挙げられる。盛り上げ方はラピュタに良く似ています。

 でも、それがどうかしたのでしょうか?

 ラピュタのコピーだってのなら、「ナディア」だって、その更にコピーであるディズニーの「アトランティス」だってラピュタとプロットが同じなのだからコピーです。



 でも「ナディア」は面白い。傑作です。



 それでいいのです。



 ディズニーの「アトランティス」は面白くない。これは駄作。



 それでいいのです。



 エンターテイメントは畢竟そこに尽きる。

 正直に、素直な気持ちを少しも持たずに、斜に構えて、あら探しをしようという気持ちだけでエンターテイメントを語っちゃダメなんだと思います。そんな事を言ったら、「ナディア」には宮崎駿原案の二番煎じという評価しか下せないのです。



 「ナディア」はコピーという風には感じなかった時代に見たから、正確な判断ができた。

 なら「ゲド戦記」もそういう風に見ればよいのです。



 そもそも、コピーの何がいけないのだろうか。コピーがダメなら、スターウォーズなんて、神話の類型、プロットを意識的に踏襲した、コピーそのもの。

 映画、アニメに限らず、何事も、最初の「何か」は天才が作る。凡才がそれを受け継いで、万人に通用するモノに調整する。それを更に天才が手を加えて新しい要素を付け加えていくのです。

 寧ろ、数々の人が培った技術が受け継がれずに忘れられていく。例えば現在の日本のアニメーター事情なんかもそう、そちらの方が「コピー」云々よりも何倍も問題なのです。

 作品としては、序盤の「昔、竜と人間はひとつだった。」という伏線があんな形で解消されるとは。というサプライズもあり、主人公、ひいては人間にとっての永遠のテーマである、「死への怖れ」が解消されていく説得力を持たせるだけの描写もできていたので、充分良作と言えると思います。



 気になったとすれば、「主人公の問いかけ」に対しての回答を持っていたヒロインは、「主人公」に対しては「運命の相手」ですが、「ヒロイン」に対して「主人公が運命の相手」かと言われると、描写不足かな。と思わないでもないです。一応伏線でフォローはしている感じですが、「主人公」も「ヒロイン」に対して何かもっとイベントが無いとダメだったんじゃないかなと。

 物語の収束点である主人公とヒロインの名前の交換の儀式では、主人公がヒロインに「勇気」を持たせる事を助けていたけど、ヒロインは元々元気な子だったし、むしろビクビクしている方が違和感を感じなくもないです。



 けれど、ヒロインの立ち位置がもともと達観した存在であった為、主人公を導く役割という事にして、主人公は、ヒロインと共に生きる事でヒロインの孤独を解消するという役割が果たせていたようなので、これはこれで纏まっているともとれます。



 それと、表現としての暗喩が、子供には難しすぎるのではないかと思う。



 「人とドラゴン」と、「主人公とヒロイン」の構造上の暗喩は、物語の肝であり、一応最後まで分からないことになっているので良いとして、その材料である、「ヒロインが何故悲しいのか」、「ヒロインがハイタカ(灰鷹)に何故好印象をうけたのか」は、「鷹」とヒロイン(の正体)の暗喩。

 「名前の明かし合い」が、実質的にどういう関係なのかを、ハイタカの真の名をテナーが知っている事から読み取り、偽りの契約である「クモとアレン」と、真の契約である「アレンとテルー」との差異と、そこにアレンとテルーが到達したことの暗喩。(エロいねこれ。)

 「極端に暗く、陰すら移らない闇に満ちたクモの砦」、そこに入れない「もう一人のアレン」が何であるかの暗喩。

 「何故、アレンには剣が抜けなかった」のか、「最後に何故抜けるようになった」のかと、「ゲドが砦で力が使えなくなった」のと、「世界で魔法が使えなくなっている」などの暗喩。



 少なくとも原作未見の私は、重要そうな情報はチェックしていたので、暗喩を理解できましたが、私の後ろで見ていた女子高生曰く、



「むずかしかったね。」



ブレイブストーリーの方が簡単だったね。」



 そんなの作品の性格上当たり前だろうと思うのです。



 小学生低学年のお子様達、今回トトロを観る気分で頭を空っぽにして観ていた方は、5年ぐらい後に金曜ロードショーで放送したときにもう一回きちんと観て、作品をきちんと捉えて欲しいと思います。

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