「分からない」視聴者の選民思想

 2日前の日記で、アニメの感想についてネット上の他人の反応を見て、「『分からない』同士が集まって『分からない』事を正当化してしまう。」と書いたけど、「分からない」を正当化する人が集団を作ると、色々と弊害があると思います。

 「分からない」事を正当化してしまうと、「分かる」人や、「分かろうとする」人に対しても、「分からない」事を強要しようとします。この姿は、特定の書物や言葉を金科玉条どころか、絶対の真実と信じ込んで、あまつさえ自分の行動を正当化しようとする姿に似ています。その種の人達は、特殊な状況に於ける判断を一般化させ、政治的・感情的理由で書き足されたであろう都合のいい言葉だけを抜き出して、「この本(=感想)には〜〜と書いている、だから自分のしている事は正しい!」と、まるで「自分の言葉」で語っていないばかりか、自分と異なる価値観を持つ人を排斥する傾向がある、というか、そういう性格を持った「本(=感想)」自体が、依存しやすい存在なのです。自分の存在を肯定して高めてくれて、往々にして他人の存在を低めるのが常套手段ですから。

 何かを頼るのは人間としてありふれた事で、特に悪い事でもないと思いますが、「他人の言葉(本とか感想)」を「自分の言葉」と一致していると勘違いし、自分は「みんなの代表」だと勝手に思いこんで、「自分の言葉」で語っている人、つまり自分と異なる価値観を持つ人を排斥するのは良くないとおもいます。

 絶対なんてこの世には無く、常に疑問を持って進む事が、そうした事態を避ける方法だと思います。