「そのとき、タナトスは思った。ひとりではないと…。」〜ドラゴノーツとブレンパワードとの類似性から〜

 先日のドラゴノーツの記事で、「タナトス」の思考についてさらっと書いたんですが、書き足らない事があったので書いてみる。

 あと、多分タナトスが怒っている理由は、「レゾナンス」という擬似的な「絆」を人間によって無効化され、「真のレゾナンス」で新たに定義されてしまったから、寂しくて怒ってるんじゃないかな?

http://d.hatena.ne.jp/AlfLaylawaLayla/20080307/1204816282

 「タナトス」は今まで直接的な言及を避けて描かれているんですが、個人的には富野由悠季監督による1998年の作品「ブレンパワード」(もう十年経つんだぁ…)との類似性が高いと考えています。

ブレンパワードとは?

 ブレンパワードは、いきなり全裸の少女が映し出されるという富野監督のセンスが炸裂した衝撃的なOPで始まる作品です。なお、本編は決してエロを全面に出したものではなく、エロスの先にある愛情といったものがメインです。ですから、全裸なのに全くイヤらしく見えない絶妙のバランスで描かれた少女達の裸体は、非常に「本編」を象徴していると言えると思います。
 さて、ブレンパワードは、「親と子」、「姉と弟」、「恋人同士」、「人間とアンチボディ」、「人類とオルファン」など「対となる存在」との関係性を意図的に作品に組み込んでいます。それは基本的にパイロットとブレンパワード、あるいはパイロットとグランチャーは唯一の組み合わせであり、乗り換えは余程の相性が無くては無理である事が象徴しています。
 また、カナンブレンとヒギンズブレンは一枚のプレートからリバイバルした双子のアンチボディであり、勇ブレンとネリーブレンは二体が融合して再リバイバル(男女が対になる事で「完全」になり子供が生まれる事に比定される)を行ったように、アンチボディ同士の関係もまた「他者」を必要としていおり、一人ではいられない欲求を抱えています。
 作品の着地点として、主人公は姉と和解し、オルファンは人類と和解したように、「会うべくして出会った対となる者同士」の関係によって、「対だったのに袂を分かった者同士」だった存在が「対となる存在」との関係を再獲得する事で地球とオルファンの共存が実現されています。

「オルファンさーん!
あたしの一番大切な人をあげるのよ!
あたしの愛している人なんだから、寂しくないでしょ?」(宇都宮比瑪)

ブレンパワード リマスターBOX [DVD]

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ドラゴノーツブレンパワード

 ドラゴノーツもまた、「対となる存在」を強く意識しています。「人間とコミュニケーター」の関係性が、「恋人同士」、「親友同士」、「自分自身同士」、「師と弟子」、「親と子」、「祖父と孫」のような多彩な関係性でオーバーロードした概念になっています。つまり、既にお分かりの通り、この「ドラゴノーツ」という物語の着地点もまたブレンパワードと同じように「対となる存在」との関係を再獲得することだと考えられます。
 特に、未だ「宿命」による「強制」から完全に自由ではないオリジナル・ドラゴンは「寿命」から逃れられない「宿命」にあり、大事な存在との離別を「強制」されていますが、「恋人」、「師と弟子」、「親と子」という関係性が完全に機能し、そしてなおかつ未だに「たった一人」である「タナトス」の孤独が解消される事で、全てが解決するのではないでしょうか。

「そのとき、タナトスは思った。ひとりではないと…。」

 上記のタイトルで使った台詞は主人公であるカミシナ・ジンの台詞、

「そのとき、僕は思った。ひとりではないと…。」

 をもじったものなんですが、現在本編では、「対」であるカミシナ・ジンとトアが別れを余儀なくされる状況になっているんですが、きっとタナトスについて、カミシナ・ジン達と相似形をなしてそれに相当する描写がされるのではないかと思います。