『コードギアス』の飛越と断絶。

 「R2」の第1話は象徴的だけれど、普通は1話であそこまで話を進めないよね。「R1」最終話の時点で「ルルーシュはいったいどうなってしまったのか?」という謎で視聴者を惹きつけたまま1年間待たせたわけだから、その謎でもっとひっぱるところだと思う。少なくとも浦沢直樹ならそうする(笑)。

 しかし、『ギアス』ではその謎は第2話の段階でほぼ解決されてしまう。この速度こそ、視聴者を強烈に魅了する『ギアス』の魅力だろう。

http://d.hatena.ne.jp/kaien/20080531/p2

 kaienさんが仰るように、コードギアスは、平均的なアニメに比べて異常に情報量が多い。しかし、情報量が多いという点では、今期にはマクロスFが挙げられる。二つの作品の情報量の密度、或いは「速度」といったものを比較して、どちらが「速いか」を比べる事はここでは無意味であり、マクロスFも「情報量が多い」という点ではコードギアスと変わらない、その点だけを前提として話を続ける。

 さて、マクロスFコードギアスは共に情報量が多い、この状態を「速度が速い」と表すとしよう。しかし、コードギアスに感じる感覚とマクロスFに感じる感覚は違うように、(少なくとも私は)感じる。なら、マクロスFには無くて、コードギアスに有る、「或る要素」が「速度が速い」と言語化させる要因であろう。

 少なくとも、「情報量の多さ」は「速度」の基準の必要条件ではあるが十分条件ではなさそうである。

 しかし、その「速度」が諸刃の刃であることも、多くのファンが感じているところだと思う。過剰なまでに速い展開は物語の薄っぺらさと裏表でもある。

 その欠点のほうが表面に出てしまったのが「R2」第8話「百万のキセキ」。あまりにも速すぎる展開に、視聴者は呆気に取られる結果になってしまった。

http://d.hatena.ne.jp/kaien/20080531/p2

 上記のkaienさんの記述のように、コードギアスは、「あまりにも速すぎる展開」というのがしばしば取られる。わたしはこれを「飛越」と捉える。つまり、或る一定の、或いは或るxからx+δのスピードを維持して高下を繰り返しながら進んでいた物語という車のアクセルを、或る場所で思いっきりアクセルを踏むのだ。

 その結果、コードギアスは「物語の飛越」と「視聴者の意識の断絶」を大きな武器として持つ事になる。
 それは「百万のキセキ」のような、終盤での怒濤の「種明かし」や、ラストシーンでしばしば使われる「ルルーシュは来週どうするんだ!?」といった引き、更には第一期最終話の「で、ルルーシュは一体どうなったの!?」という「謎」もその文脈で説明が付き、それは巨視的な視点では成功を収めてきたと言ってよいだろう。

 しかし、その手法は屡々「過程」や「ルルーシュの思考」の省略や、「ルルーシュの思考」を視聴者がミスリードするような描写を挟む事で、「むむむ!?全く予想できない展開になってきた!これからどうなるんだ!?」と視聴者を強く惹き付ける。「百万のキセキ」のルルーシュの「特区日本への参加の真意」や、「100万人のゼロ」がそういった要素に当たるが、「物語の飛越」は「視聴者の意識の断絶」というマイナス要素を必ず孕み、「百万のキセキ」を例にとれば、「ゼロの衣装がよく最後までバレなかったね」、「裏切り者が出たらどうしたんだろう?」というような疑問が(多くは見た後に)浮かんでくるだろう。

 もしかしたら「百万のキセキ」は「物語の飛越」より「視聴者の意識の断絶」の弊害の方が大きかったかもしれない。しかし、主観的な話をすると、私はリアルタイムで見ていた時にはワクワクしながら視聴させてもらった。勿論視聴したあとに、「アラ」には気付いたが、リアルタイムでの面白さと、省みた評価というのは私の中では別次元である。好きな曲も何度も聞けば飽きてくる。しかし、最初に聴いた時の感動というのは否定出来ない。そんな「勢い」を否定する、大人の気持ちよりも、私の場合は、「わー、面白かった!」という子供的に「勢い」を肯定する気持ちが強い。だから、私は「百万のキセキ」を擁護したいと思う。

 蛇足だが、コードギアスは「速度」というより、「飛越」をもたらす「加速度」として、あるいは「速度」と「加速度」のセットで捉えた方がより実情に近いのではないだろうか?