「みなみけ」と「みなみけ〜おかわり〜」は何が違うのか ―「おかわり」がつまらないと感じる原因―

 「みなみけ」と「みなみけ〜おかわり〜」は、共に原作漫画を共有するのみならず、製作時期も殆ど変わらない、希有稀な作品である。それは、同じ作品世界を共有している「第一作目」と「その続編」との関係に比定される。

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はじめに 〜「路線」の選択〜

 「続編」に於いて多く言われるのが、「前の方が良かった」という意見である。しかし、「前作よりつまらない」という視聴者の反応は、ネットや口コミで増幅されるが、「前作と変わらない」と、「前作より面白い」という意見は、殆ど増幅されない事を忘れてはいけない。即ち、「面白かった作品」の続編を作る場合、前作当時の支持層の大部分に再び支持される作品、または前作当時の支持層以上の支持層を新たに開拓するような作品を作らなければならない。お分かりの通り、前者の場合は「路線の踏襲」、後者は「路線の転換」が取られる。

路線と製作の制約

 例えば前者の代表とされるのが漫画を原作とする「絶望先生」である。この作品は「絶望した!」の台詞に持っていくまでに如何なる詭弁を弄するか、また取った詭弁に対して更なる詭弁を尽くす楽しさがある。例えば今週の一場面を取れば、「心が読まれる」という糸色望の被害妄想を肯定すべく、糸色望は「心を閉ざす」と慣用句の字面を利用した詭弁を弄し、風浦可符香は「心無い人」とやはり慣用句の字面を利用した詭弁を尽くすといった具合である。「絶望先生」の場合は、一話で完結し、なおかつAパート、Bパートの独立性を強めたりも出来、アニメにするに当たって困難とされる尺の調整や、アニメ制作スタッフによる再解釈、再構成が非常に容易で、続編が作りやすい。なお、原作が先に存在しているので、路線の変更というのが難しいという理由もある。

 一方で後者の代表としてオリジナル作品である「魔法少女リリカルなのは」を挙げよう。この作品は第一期、第二期の「悲しい過去を背負った幼い少女達」が出会い、悲しい出来事を仲間達の力で乗り越えながら成長していく「成長譚」の性格が強い作品だったのに対し、第三期では幼かった少女達がある程度成長し、「悲しい過去を背負った幼い少女達」に、「居場所」を与え、悲しい出来事から救済する「育成譚」としての性格が強い作品となった。作画などの要素はあったにせよ、視聴者の混乱は「路線の転換」によるものが大きかった。この作品の場合は、第一期、第二期が「成長譚」として「路線を踏襲」してしまった為に、それ以上の「路線の踏襲」をしても二番煎じとなってしまい話の展開がしにくくなってしまう虞や、シリーズの完結としての役割などの已むを得ない理由があった事もあるが、何にせよ、続編の作成の難しさは垣間見える。ともかく、オリジナル作品の場合は漫画などの原作付きと違って「路線の変更」に伴う制約が小さく、容易である。だが同時に、バランスに気をつけないと失敗する危うさも孕んでいる。

 「みなみけ(無印)」から「みなみけ〜おかわり〜」への変化は後者に近い。

 「みなみけ(無印)」は、5分程度の小さなエピソードで一話が構成されており、時にはそれぞれのエピソードの中で張られた伏線を最終的に回収する場合もあるが、基本的にはそれぞれのエピソードの独立性は高く作成されている。それに対して「みなみけ〜おかわり〜」は一話を単位にして構成されている。この、作品の構成の時点での路線の違いが、「みなみけ(無印)」と「みなみけ〜おかわり〜」の相違に発展している。

みなみけ(無印)」と「みなみけ〜おかわり〜」の相違

 さて、前置きが長くなってしまったがここからが本題である。一言で言うと「みなみけ〜おかわり〜」は間の取り方が「みなみけ(無印)」に劣っている。
 「みなみけ(無印)」は小さなエピソードの中で多様なパターンが取られる。ここでは仮に、「不条理ギャグ」、「神の視点ギャグ」、「変人ギャグ」の3つに大別する。
 「みなみけ(無印)」第5話「海に行こうよ」を例に取ると、夏奈の策略で「派手な水着」を着る羽目になった春香や、何故か千秋がお願いすると雨が止む為に、てるてる坊主にされて吊り下げられたり、あの手この手で宥め透かさざるを得ない千秋の面白さが「不条理ギャグ」であり、夏奈がどんな手を使っても水着になってくれなかったのに、偶然会った友人達が「派手な水着」を着ているのを見た春香がいつの間にか水着になってしまって夏奈が「なんで?」と外される面白さを、視聴者だけが持つ「神の視点」によって理解されるギャップによる面白さが「神の視点ギャグ」であり、夏奈の暴走や、千秋の傲岸不遜っぷり、春香の番長ネタ、そして何よりも神懸かった「気持ち悪さ」を誇る保坂によって展開される「変人ギャグ」である。
もっとも、明確にこの3種類に類型化できるワケではなく、ツカミとオチでそれぞれを使い分けたりするのが普通である。
 すなわち、「みなみけ(無印)」の魅力は小さなエピソード個別の面白さによって、それを構成して作られる一話全体での満足度を非常に高いものにしている点にある。また、この構成の仕方は、上で「絶望先生」を例にとったように、原作のエピソードを生かし易く、かつまたアニメ独自の解釈などを加えやすい。

 それに比べて、「みなみけ〜おかわり〜」は一話で完結した物語を展開する為に、多くの原作付きアニメがそうであるように、どうしても間延びしてしまう危険性を孕んでいる。「みなみけ〜おかわり〜」第3話を例に取ると、

 宿題が沢山出る
   ↓
 南家で勉強会をする事になる
   ↓ 脱衣シーン
 鍋をする
   ↓ 入浴シーン
 いつの間にかパジャマパーティーに変貌して就寝

 エピソード内のローテーションで「みなみけ(無印)」を支えていた「不条理ギャグ」は最後のパジャマパーティーぐらいである。「神の視点ギャグ」はただの一度も出てこない。「変人ギャグ」の筆頭である筈の保坂も、「鍋と裸っぽい南春香」という実に味気に欠ける妄想しか展開できず、出てきても大して「きもちわるくない」上に、「みなみけ(無印)」のDVDのCMに出てきた「声だけ」の保坂の方が面白いという有様である。
 一話の中で、ギャグがあっても散発的に挿まれるだけで、多くは滑っていて、笑える箇所は殆ど無い。「みなみけ〜おかわり〜」は第1話から終始このように展開される。「みなみけ(無印)」よりもより裸が強調されるが、「みなみけ(無印)」で、見えるか見えないかという絶対領域の方が支持されていた事を踏まえると、背中だけしか見せないような裸には価値は無く寧ろ逆効果であろう。
 第1話「温泉、いただきます」では南家が延々と風呂に入り浸る理由を作る為に構成されたような脚本であり、その間に挟まれるマコちゃん(誠)と冬馬との会話、藤岡とタケルの詰問は、まったく中身も面白みも無く、同じような内容を繰り返していた。
 現時点の最新話である第4話「片付けちゃっていいですか?」は、フユキのキャラの説明に費やされる。フユキは冬馬と同じく「冬」を共有し、それはとりもなおさず「春夏秋冬」の南家の4人目の家族としての役割が付与されている事を意味する為、視聴者に家族として認知してもらう為にこのようなエピソードが挿まれる事は当然且つ必須ではあるが、しかしそもそも、フユキというキャラクターが「みなみけ」に相応しいキャラクターであるかと言えば、「みなみけ(無印)」の文脈で言えばNOであるし、「みなみけ〜おかわり〜」を面白くするならやはりNOである。これまで述べてきたように「みなみけ〜おかわり〜」は「みなみけ(無印)」とは全く違う路線を取っているし、フユキというキャラクターを立たせる為に春香は奉仕活動を命じ、夏奈はサボってフユキと対照的な例になり、千秋はフユキを観察しているが、ギャグが成立しようとする度にフユキが登場してギャグが白けたモノになっている。それを紛らわすように余計に登場人物が増えているが、それは逆に南家三姉妹とフユキの接触の機会を減らしてしまっている。総じて、ギャグにもシリアスにもなれない中途半端な話になってしまっている。

 しかし、それだけならば、アニメとしては平凡な作品であり、ヒットはしないまでも、叩かれる事は無いだろう。しかし、先に、しかも記憶が薄れる一週間前(地域によっては2週間)に「みなみけ(無印)」が放送されていたのが「みなみけ〜おかわり〜」の不幸である。これが数クールを挿んで放送されていたら、或る人は視聴者の記憶の弱化により前作の印象が曖昧になり、また或る日とは新しい気持ちで視聴したりで、幾らか緩和されたかも知れないが、直後に放送されてしまった為に視聴者が「みなみけ(無印)」の雰囲気を良く記憶し、同じような面白さを期待してながら「みなみけ〜おかわり〜」を視聴した為に、全く路線の違う作品である「みなみけ〜おかわり〜」は視聴者に違和感を強く与えてしまったのである。

 早く「みなみけ〜おかわり〜」が「みなみけ(無印)」とは違う面白さを開拓し、視聴者に切られる前に提示しなければ、「みなみけ〜おかわり〜」は作品として失敗してしまうであろう。

ココロノツバサ

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